ヴィデオドローム (1983年)

原題:Videodrome 

 デヴィッド・クローネンバーグ監督のカルトムービー。初見は15歳頃、深夜枠地上波で見た。が、たとえ深夜枠でも「ビデオドローム」が日本の地上波で流れた事があるのか?今考えるとその記憶こそ幻想だったのではと思えてくるのだけれども、最小画面のSONYのラジオテレビで親に隠れて押し入れの中で見た。画面が白黒で電波も悪かったので映画本編そのものが“違法電波受信”している雰囲気があって、内容はよく分からなかったがリアル・ヴィデオドローム体験だった事は確かだ。(この体験が強烈だったので、大人になってからクローネンバーグ監督に「私のビデオドローム初体験記」と映画の感想を手紙に書いてトロントへ送っている。監督は「とても素晴らしいエピソードだね!手紙をありがとう」と書いたサインを郵送してくれた)

 というわけで控えめにいっても個人的に大好きな映画で、この映画の見どころは沢山ある。

 まず最近の映画ではなかなか見られないテクスチャーにあふれている。細部にこだわるクローネンバーグ監督作品の中でもビジュアル的に一番リッチな作品ではないだろうか。

 主人公の部屋にあふれる無数の小物、テレビ局地下の機材やオフィスの個性的な間取り、安ホテルやコンドミニアムのディテール。劇中に日本人ビジネスマンが売り込みにくるポルノシリーズ「サムライドリーム」にいたっては使っている女優さんの雰囲気も良く、テーマソングでさえなかなかの出来である。(H・ショア作曲であろうか)こういった細部は監督のこの作品への本気度がうかがえるし実際何度みても新しい発見がありとても楽しい。

 キャストについては、ジェームズ・ウッズがその強い個性のままクローネンバーグ・ムービーにすんなりと収まっているのが素晴らしい。彼の独特な面長の堀の深い顔が陰影によってまるで絵画のように見える。時にピカソ風に、時はルネッサンス風に映画のトーンに複雑に溶け込んでいて味わい深く、織りなすビジュアルが快くついついこの映画に浸かってしまう。脇を固める俳優たちが絶対的なキャラクターを持つJ・ウッズをどんどん凌駕していく様子も映画好きにはたまらないスリルを感じる部分である。

 さて、カルト映画という事で内容はエログロなのかというと意外にそんな事はなく、どちらかというとクリーンな映画である。(監督のコメンタリーによるとビデオドローム内の切断等のシーン等はカットされたという事で元バージョンはもっとアングロ感があったのかもしれないが。)

 というのも、ストーリーの中盤で明らかにされるが、ビデオドロームは決して暴力とバイオレンスの物語ではない。「流れている映像自体は意味がない」というセリフの通り、ビデオドロームのテーマはコンテンツ(放映内容)ではなく「メディア」(TV・ビデオ・画像配信デバイス)そのものである。

Television is Reality「テレビは現実である」

 最近のレビューでは「ヴィデオドローム」をインターネットやスマートフォンと解釈する傾向もあるが、私はそうは思わない。「テレビジョン」は一方的であり、視聴者はひたすらに受動的であり、コミュニケーションは取れない。そのシステムこそが視聴者を洗脳するという「ヴィデオドローム」のテーマなのである。ネットやスマホは何かを行う為の道具であるがテレビは違う。G・オーウェルのディストピア映画(小説)「1984」ではテレビスクリーンの設置が各家庭に義務つけられており市民はそれを消す事ができない。テレビは洗脳や監視を象徴しているのである。テレビではなく携帯やネットを与えられていれば逆に自由を与えられている事になるのではないだろうか。

 ミステリアスな登場人物オブリビアン(o’blivion忘却という意味)教授がこの映画のキーパーソンなのだが、「メディア論」で知られるカナダ人文明評論家マーシャル・マクルーハン (※脚注1 )がモデルと言われている。マクルーハンはクローネンバーグ監督がトロント大学在籍時代に同大学で教鞭を取っていて、監督は「彼のクラスを取らなかったが、マクルーハンの影響は大学内全てに色濃かった」とコメンタリーで述べている。その実、ビデオドロームに登場するオブリビアン教授は晩年のマクルーハンに瓜二つであり、監督がマクルーハンをイメージしていた事は明らかだ。興味深い事にマクルーハンはオブリビアン教授のように一度脳腫瘍を患った事があり、その体験から脳とメディアを結び付けて考えるようになったという説もある。

M・マクルーハン:トロント大学の「文化とテクノロジー研究所」の前で

 しかしながら、監督は「この映画はイデオロギーの映画ではなく、単純にエンターテイメントだ。」と言っている。平たく言うと「ビデオドローム」はクローネンバーグ監督が夜昼見るという「ビジョン」にクールなイデオロギーを匂わせるストーリーが付随しているミュージックビデオ的な映画であると言えるかもしれない。

 とはいえストーリー自体が荒唐無稽で難解というわけでは決してない。それどころか興味深いサプライズに満ちていて、ヒーローであるはずのマックス・レン(J・ウッズ)がアサシン・マシーンと化すあたりは観客の共感を拒むが、マックスは決して一般の理解の及ばないサイコパスではない。マックスはポルノムービーを放送する「腐敗したTV局」経営者ではあるが、登場人物の中では一番まともな常識の持ち主でなぜ彼がビデオドロームの犠牲者にならなければいけないのか同情さえ誘う。

 映画「ヴィデオドローム」は完璧に完成された作品に仕上がっているが、俳優へ出演オファー時には脚本はほとんど仕上がってはおらずキャストは混乱のうちに撮影を進めたらしい。だから観客が混乱しても無理はないのだ。スペシャルエフェクトを担当した“天才”造形師R・ベイカーが依頼された内容をみて「普通の内容じゃないので価格の見積に困った」と彼の全集で笑い話的に回想している。また、ニッキーを演じたD・ハリーは「ニッキーは本当に存在しているの?と毎日問いながら演じた」と言い、J・ウッズは「この映画を一言に要約するならマックスの “一体何の話だ”というセリフにつきる」と述べている。

 ラストシーンは撮影終了から数か月後にもう一度J・ウッズをアメリカから呼び戻して取り直したバージョンが使われている。複数のラストシーンが存在し、監督も撮影しながらスクリプトを進めていた映画であることがわかる。ラストシーンに違和感がある人は他のバージョンのラストシーンがフィーリングに合うかもしれない。いつか色々なバージョンのビデオドロームが見られる日が来る事を願う。

カナダTV放映バージョン

 実は「ビデオドローム」にはカナダでのTVバージョンが存在し、ありがたい事にYoutubeで完成版との違いを見る事ができる。(以下のリンクはその一部)

 TVバージョンでは各キャラクターがより長く作りこまれていて映画バージョン(完成版)よりも親しみやすく現実味がある。しかしそのせいで完成版のそぎ落とされたようなミニマルな精錬さが失われている。

 TV版の重要な違いとしてマックスが街を歩いている時にガラスに映った自分を見るシーンがある。そこにはビデオドローム・デバイス(幻覚録音機)を被ったままのマックスが映っていて「全てはビデオドロームの中の出来事」という解釈ができる。

●マーシャがマックスのオフィスで作品を売り込むシーン:

マーシャのマックスへの好意が伺える?(が、実際はマーシャはもっとうわてという事が本編ではわかっている)

●マックスとニッキーの初めてのデート(マックスの部屋)

TVバージョンのマックスはかなり奥手な感じだ。

●TVバージョンのラストシーン

興味深いアート絵画が見られる

●眼鏡屋の正体

このバージョンでは眼鏡屋コンベックスが多くをしゃべるためにミステリアスな雰囲気が失われている感もある。この眼鏡屋「スペクタキュラー・オプティカル」は武器を作っていると説明するコンベックス。

●サムライドリームを売る日本人セールスマンとの会話

相棒の名前は「中村ヒロ」であることが分かる。ビデオドロームファンには重要な新情報である。

※脚注1 マクルーハンはトロント大学内に「文化とテクノロジー研究所」を設立し研究所の所長を務めていたが、現在(2021年)もこの施設はトロント大学内に文化技術センター The Center for Culture and Technologyとう名前で健在で、セミナーなどが活発に行われているようだ。

ビデオドロームのイデオロギーはまだここで生きていると考えると興味深い。

Long live the new flesh

トロント大学内にある文化技術センター The Center for Culture and Technology

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ヴァンパイア/最期の聖戦 (J・カーペンター)

1998年 監督:ジョン・カーペンター

原題:Vampires

 一言でいうと最高の映画

 まず、テーマ曲をカーペンター監督本人が作曲しているところから監督の思い入れが伝わってくる。監督が作曲したシンプルでだが心躍らせるテーマ曲が流れる冒頭のシーンにこの映画の魅力のすべてが詰まっている。

 無言のうち映し出されるこわもての男たち。ごついワイヤーレンチがついたジープに次々に登場する物々しい武器。そして最後に神妙に現れる場違いな神父。これらがアクション映画にありがちな暗がりではなくピーカンの青空の下淡々と映し出されるアンバランス感。

 さらにこの映画のヒーロー達の登場だ。ハリウッド界でも異例な存在感を放つ我らがヒーロー:ジェームズ・ウッズと“太ってる方のボールドウィン”(アレックの弟である)ダニエル・ボールドウィンが実に頼もしくて絶対に負ける気がしない。だからこの冒頭シーンだけでも怖さの中でついついワクワクさせられてしまうのだ。

 彼らはヴァンパイア・スレイヤーであり、これからヴァンパイア達の巣である荒野の一軒家を襲撃するのだが、目も覚めるような晴天と打って変わって締め切られた一軒家の暗い静けさの対比がこれからの惨殺を予感させ嫌がおうにも恐怖心をかきたてる。

 ドアを開ける為に開けた穴に手を入れる様子を映し出すカメラワークも繊細だ。ドアの向こうにはどんなヴァンパイアがいて、いつ差し入れた手を食いちぎられかも分からない、その緊張感が自分がその場にいるように伝わってくる。短くシンプルだが沈黙の中に丁寧で良いシーンだ。

 中に無事に入るものの、さて、彼らは地下室にいるのか、廊下を下った部屋にいるのか、いちいちヴァンパイアの不在と静けさが怖い。怖さに耐えられないのでさっさと出てきて欲しい。しかしチームのリーダーは我らがジミー・ウッズである。外には太った方のボールドウィンだっている。頼もしい限りだ。大丈夫。

 こう言い聞かせて手に汗を握る。

 なかなか死なず、どす黒い血を吐いて抵抗するヴァンパイアをそれを上回る悪態で攻撃するジミー。最初のヴァンパイアが女性だったのでジミーの反撃には度肝を抜かれた。長い闘いの後、ジミーが冒頭シーンからこれ見よがしに抱えていたボウガンで一撃。そのとたん外で待機していたボールドウィンがジープのレンチを勢いよく回し、矢に貫かれたヴァンパイアを外へ引きずり出すのだ。ここで初めて「この為にボールドウィン家屋内には浸入しなかったのか」と合点がいく。レンチで外に引きずりだされたヴァンパイアは日光にあたり勢いよく発火。そして爆発。

 相手がヴァンパイアとはいえなんとも乱暴な殺し方だ。しかし野蛮なヴァンパイア殺しが淡々と日の下で行われているのを見続けているとこの野蛮なヒロイックさにゾクゾクさせられてしまうのだ。ここら辺で観客は悟るだろう。こんな映画は他にない!

6年ぶりのシェリル・リー

 この映画のヒロインというか犠牲者というか紅一点カトリーナ役が「ツインピークス」のシェリル・リーというセンスの良さに登場シーンで思わず「おお~!」と声が出てしまった。

 この男性キャスト面々に太刀打ちできるのは彼女しかいないし、この汚れ役を演じられるのも彼女しかいないだろう。「ローラ・パーマー最後の7日間」で気づいた方も沢山いると思うが、彼女はまずヴァンパイア顔なのである。完璧な配役としかいいようがないし、カーペンター監督が彼女をちゃんと覚えていてくれた事に驚いた。というのも、シェリル・リーといえば日本のファンには1990年の「ツインピークス」TVシリーズ以降は91年の「ワイルドアットハート」(カメオ出演)と92年の「ローラ・パーマー最後の7日間」くらいでしか拝む事ができず、なんとこの作品が6年ぶりの銀幕復活だったからだ。

 インターネットがそれほど普及していなかった公開当時、ポスターに出てこない限り映画内の主人公以外の配役は本編を見るまで分からない時代だった為、シェリル・リーのいきなりの登場に心の中で歓喜の叫び声をあげた映画ファンは多かったはずだ。

 しかし喜びもつかの間、ヴァンパイアに変異していくシェリル・リーが芸達者すぎて見ていてどんどん苦しくなってきてしまう。上手すぎるのも困りものです。

 ヴァンパイアにチームを襲われ、車も大破し、ジミーとボールドウィン、そしてシェリルが蜃気楼のちらつく寂れたハイウェイを歩く。カーペンター監督のセンスが光る選曲も伴って、こういった何気ない一シーンが永遠に心の中に「カッコよさ」として残こる映画である。

 さて、当時見てもジミーのタフさには戸惑ったものだが、現在2021年に改めて見てみるとフェミニストまたは各方面平和主義者からボイコットが起こりそうなバッドアスぶりに見ていてヒヤヒヤしてしまう。が、しかしジミーと太ったボールドウィンは意味もなく悪態をついているのではない。物語が進むにつれ彼らの過去、彼らの心、そして彼らの変化が見えてくる。実に味わい深いタフさなのである。

 暗転の代わりに画面が真っ赤に染まるショッキングな場面展開にめまいを感じつつ、この映画どうやって収拾させるのか(恐怖という意味で)終始不安になる展開で、映画が終わった時はその意味深ラストシーンのインパクトもあって自分は映画館から命からがら「生還」した、と感じた。そんな体験的映画だった。自分は公開当時トロントの映画館にて鑑賞。映画館=バンパイヤの暗い洞窟という感じがしてとにかく怖かった。もちろん海外客特有の威勢の良い悲鳴や絶叫も恐怖感をさらに増したのだとは思うが、必ず勝ちそうなJ・ウッズが主人公でなかったら途中で映画館を逃げ出していたと思う。

 ところで、カーペンター監督はジェームズ・ウッズに好きなように即興で演技させるジミー・バージョンも撮影したという逸話がある。思うに脚本通りの本バージョンといくつかのジミーバージョンを掛け合わせて完成版としたと考えられるが、どこか脚本か、どこかジミーオリジナルか、見るたびにどちらだろうと考えてしまう。

 月日が経ってもカーペンター監督とその仲間たちのヒロイズムはいつまでも色あせる事はない。

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