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将軍の娘-エリザベス・キャンベル

(原題:The General’s Daughter)1999年

サイモン・ウェスト監督作品 イギリスの映画監督

 「コンエアー」のサイモン・ウェスト監督作品なのでぜひ期待度を上げて見て欲しい。この映画の紹介文を見ると「軍上層部の腐敗と巨大な権力に挑む主人公」的な一文があるので男くさい権力ドラマを想像する人がいるかもしれないが、実は全く逆の趣向の作品である。この映画が挑むのは軍組織ではなく男性社会という特殊権力社会だからだ。

 さて、この映画の見どころは何と言ってもファーストシーンに集結されている。導入シーンの盛り上げが大得意ウェスト監督だけあり、今回もタイトルトシーンで彼の力量の全てを見せつけてくれる。5分にも渡るドラマチックフなオープニングシーンは映画全体の出来を予感させ、それだけで映画ファンをゾクゾクさせてくれる。

 この映画のタイトルにもなっている「将軍(General)」ことキャンベル中将の退役パーティーに正装の軍人たちが、南部民謡「シーライオンウーマン」の不穏な旋律と共に続々と集まってくる。この民謡の「彼女は嘘をつきまじめた」と繰り返す不気味ともいえる歌詞がこの映画の薄暗いテーマを見事に反映している。

(以後、物語に関連する記載あり。この映画を謎解きミステリーとして鑑賞されたい方は鑑賞後にお読みください)

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この映画の主人公(もしくは被害者)エリザベス・キャンベル大尉は、この基地の最高司令官で退役後は副大統領と噂されている実力者J・キャンベル中将の一人娘であったが、同僚男性たちからその才能をねたまれ演習地で集団レイプされたという過去を持つ。

しかし彼女はその事件後も軍にとどまり、大尉にまで上り詰めて軍の心理部で教鞭を取っていた。キャンベル中将退役パーティーの夜、本作のリード役である陸軍犯罪捜査部(CID)捜査官ポール・ブレナー准尉(ジョン・トラボルタ)は道端で偶然エリザベス・キャンベルに出会う。

ポールは彼女を誰とは知らず、もちろん過去等も知る由もないが、光り輝くばかりの聡明な彼女の姿に一瞬で惹かれる。ここで交わされる軽く楽しい会話や自信に満ちた二人が交わす視線が、この映画の結末を思えばとても悲しい。後日彼女の殺人事件を追う事になる彼にとって、また観客にとっても感情的に非常に重要なシーンだ。というのも、原作にはこのシーンはなく、事件を扱う捜査官ポールは個人的に彼女を知らない事になっている。しかし、映画では2度の出会いがあり、この時のポールがエリザベスから受けた個人的な印象が捜査を左右したと言ってもよい。淡々と進んでゆく軍内での捜査の根底で被害者への温かく、そしてどんな事実が出てきても彼女を信じ続ける理由となった一瞬の出会いがこの映画を特別なものにした。

二重の裏切り

 エリザベスは同期の男性兵士達からレイプされたが、軍の評判の為にその事件を彼女が最も尊敬する父親が率先して隠ぺいするという二重の裏切りを受けている。彼女の信頼する父親からうけた第二の裏切りの方がダメージが大きい。しかし、実は三重の裏切りがあったのだ。それはエリザベス本人の自分自身への裏切りであった。

 エリザベスは過去のトラウマから逃れる為、また軍で生きる為に自分自身もレイプ事件がなかったように振るまわなけれなければならず、性的に自暴自棄になり自分自身を傷つけてきた。彼女の自分に対する性的倒錯は冒頭の南部民謡「シーライオンウーマン」の選曲にも巧に現れている。子供の数え歌としてうたわれているこの歌は実は入港する船員を待つ売春婦(Sea Line Women)の事だ。しかし、自虐的な生き方に溺れていた彼女が三重の裏切りに気づき、「事件は実際にあった」と立ち返り、立ち上がった時にまた殺される。いや、立ち上がったからこそ2度目の事件が起こったと言えるだろう。

 人間は皆基本的に自分の益を第一に考える本能を持った生き物だ。誰もが自分の利益の為に自分の良心を欺き、うまく言い訳を作り出して他人の不利益に目をつぶった事があるだろう。

この物語に登場する男性達も社会では良識を持ち尊敬されている人物達であり、心から「自分の行っている事はエリザベスの為である」と信じきっている。自分の順調な人生が大切なあまり、エリザベスの魂の叫びは単なる問題のタネか、平和で秩序ある日常を脅かす脅威でしかない。

 しかしエリザベスの方は、レイプ事件を否定される事でまさに自分という存在そのものを否定され、存在を殺されていた。彼女は再度事件が起こり実際に殺されるよりずっと以前に彼女が属する社会から殺されていたのだ。

 さて、この映画は重いテーマを扱っているが、ベテラン・スター俳優達の助けで多くの人が話題にするポピュラーな映画になった。俳優でもありダンサーでもあるジョン・トラボルタのにじみ出るヒップさは全編を通して暗い雰囲気を救ってくれるし、容疑者でエリザベスの上司を演じるJウッズは一皮はぐごとに性格、性、そして人間の本当の強さというレイヤーを次々と魅せてくれる。この両人の最初の対面シーンでは、お互い言葉を最小限にしか使っていないが、その一言一言が大きな意味を持つ心理戦そのものでこの映画の見どころの一つだろう。そして二度目に見るとその会話は全く違う意味を持つ。

 ビジュアルの美しさ、華々しいドラマ性、そして珠玉の演技たちに支えられた魂の高揚がこの映画にはある。

ヴィデオドローム (1983年)

原題:Videodrome 

 デヴィッド・クローネンバーグ監督のカルトムービー。初見は15歳頃、深夜枠地上波で見た。が、たとえ深夜枠でも「ビデオドローム」が日本の地上波で流れた事があるのか?今考えるとその記憶こそ幻想だったのではと思えてくるのだけれども、最小画面のSONYのラジオテレビで親に隠れて押し入れの中で見た。画面が白黒で電波も悪かったので映画本編そのものが“違法電波受信”している雰囲気があって、内容はよく分からなかったがリアル・ヴィデオドローム体験だった事は確かだ。(この体験が強烈だったので、大人になってからクローネンバーグ監督に「私のビデオドローム初体験記」と映画の感想を手紙に書いてトロントへ送っている。監督は「とても素晴らしいエピソードだね!手紙をありがとう」と書いたサインを郵送してくれた)

 というわけで控えめにいっても個人的に大好きな映画で、この映画の見どころは沢山ある。

 まず最近の映画ではなかなか見られないテクスチャーにあふれている。細部にこだわるクローネンバーグ監督作品の中でもビジュアル的に一番リッチな作品ではないだろうか。

 主人公の部屋にあふれる無数の小物、テレビ局地下の機材やオフィスの個性的な間取り、安ホテルやコンドミニアムのディテール。劇中に日本人ビジネスマンが売り込みにくるポルノシリーズ「サムライドリーム」にいたっては使っている女優さんの雰囲気も良く、テーマソングでさえなかなかの出来である。(H・ショア作曲であろうか)こういった細部は監督のこの作品への本気度がうかがえるし実際何度みても新しい発見がありとても楽しい。

 キャストについては、ジェームズ・ウッズがその強い個性のままクローネンバーグ・ムービーにすんなりと収まっているのが素晴らしい。彼の独特な面長の堀の深い顔が陰影によってまるで絵画のように見える。時にピカソ風に、時はルネッサンス風に映画のトーンに複雑に溶け込んでいて味わい深く、織りなすビジュアルが快くついついこの映画に浸かってしまう。脇を固める俳優たちが絶対的なキャラクターを持つJ・ウッズをどんどん凌駕していく様子も映画好きにはたまらないスリルを感じる部分である。

 さて、カルト映画という事で内容はエログロなのかというと意外にそんな事はなく、どちらかというとクリーンな映画である。(監督のコメンタリーによるとビデオドローム内の切断等のシーン等はカットされたという事で元バージョンはもっとアングロ感があったのかもしれないが。)

 というのも、ストーリーの中盤で明らかにされるが、ビデオドロームは決して暴力とバイオレンスの物語ではない。「流れている映像自体は意味がない」というセリフの通り、ビデオドロームのテーマはコンテンツ(放映内容)ではなく「メディア」(TV・ビデオ・画像配信デバイス)そのものである。

Television is Reality「テレビは現実である」

 最近のレビューでは「ヴィデオドローム」をインターネットやスマートフォンと解釈する傾向もあるが、私はそうは思わない。「テレビジョン」は一方的であり、視聴者はひたすらに受動的であり、コミュニケーションは取れない。そのシステムこそが視聴者を洗脳するという「ヴィデオドローム」のテーマなのである。ネットやスマホは何かを行う為の道具であるがテレビは違う。G・オーウェルのディストピア映画(小説)「1984」ではテレビスクリーンの設置が各家庭に義務つけられており市民はそれを消す事ができない。テレビは洗脳や監視を象徴しているのである。テレビではなく携帯やネットを与えられていれば逆に自由を与えられている事になるのではないだろうか。

 ミステリアスな登場人物オブリビアン(o’blivion忘却という意味)教授がこの映画のキーパーソンなのだが、「メディア論」で知られるカナダ人文明評論家マーシャル・マクルーハン (※脚注1 )がモデルと言われている。マクルーハンはクローネンバーグ監督がトロント大学在籍時代に同大学で教鞭を取っていて、監督は「彼のクラスを取らなかったが、マクルーハンの影響は大学内全てに色濃かった」とコメンタリーで述べている。その実、ビデオドロームに登場するオブリビアン教授は晩年のマクルーハンに瓜二つであり、監督がマクルーハンをイメージしていた事は明らかだ。興味深い事にマクルーハンはオブリビアン教授のように一度脳腫瘍を患った事があり、その体験から脳とメディアを結び付けて考えるようになったという説もある。

M・マクルーハン:トロント大学の「文化とテクノロジー研究所」の前で

 しかしながら、監督は「この映画はイデオロギーの映画ではなく、単純にエンターテイメントだ。」と言っている。平たく言うと「ビデオドローム」はクローネンバーグ監督が夜昼見るという「ビジョン」にクールなイデオロギーを匂わせるストーリーが付随しているミュージックビデオ的な映画であると言えるかもしれない。

 とはいえストーリー自体が荒唐無稽で難解というわけでは決してない。それどころか興味深いサプライズに満ちていて、ヒーローであるはずのマックス・レン(J・ウッズ)がアサシン・マシーンと化すあたりは観客の共感を拒むが、マックスは決して一般の理解の及ばないサイコパスではない。マックスはポルノムービーを放送する「腐敗したTV局」経営者ではあるが、登場人物の中では一番まともな常識の持ち主でなぜ彼がビデオドロームの犠牲者にならなければいけないのか同情さえ誘う。

 映画「ヴィデオドローム」は完璧に完成された作品に仕上がっているが、俳優へ出演オファー時には脚本はほとんど仕上がってはおらずキャストは混乱のうちに撮影を進めたらしい。だから観客が混乱しても無理はないのだ。スペシャルエフェクトを担当した“天才”造形師R・ベイカーが依頼された内容をみて「普通の内容じゃないので価格の見積に困った」と彼の全集で笑い話的に回想している。また、ニッキーを演じたD・ハリーは「ニッキーは本当に存在しているの?と毎日問いながら演じた」と言い、J・ウッズは「この映画を一言に要約するならマックスの “一体何の話だ”というセリフにつきる」と述べている。

 ラストシーンは撮影終了から数か月後にもう一度J・ウッズをアメリカから呼び戻して取り直したバージョンが使われている。複数のラストシーンが存在し、監督も撮影しながらスクリプトを進めていた映画であることがわかる。ラストシーンに違和感がある人は他のバージョンのラストシーンがフィーリングに合うかもしれない。いつか色々なバージョンのビデオドロームが見られる日が来る事を願う。

カナダTV放映バージョン

 実は「ビデオドローム」にはカナダでのTVバージョンが存在し、ありがたい事にYoutubeで完成版との違いを見る事ができる。(以下のリンクはその一部)

 TVバージョンでは各キャラクターがより長く作りこまれていて映画バージョン(完成版)よりも親しみやすく現実味がある。しかしそのせいで完成版のそぎ落とされたようなミニマルな精錬さが失われている。

 TV版の重要な違いとしてマックスが街を歩いている時にガラスに映った自分を見るシーンがある。そこにはビデオドローム・デバイス(幻覚録音機)を被ったままのマックスが映っていて「全てはビデオドロームの中の出来事」という解釈ができる。

●マーシャがマックスのオフィスで作品を売り込むシーン:

マーシャのマックスへの好意が伺える?(が、実際はマーシャはもっとうわてという事が本編ではわかっている)

●マックスとニッキーの初めてのデート(マックスの部屋)

TVバージョンのマックスはかなり奥手な感じだ。

●TVバージョンのラストシーン

興味深いアート絵画が見られる

●眼鏡屋の正体

このバージョンでは眼鏡屋コンベックスが多くをしゃべるためにミステリアスな雰囲気が失われている感もある。この眼鏡屋「スペクタキュラー・オプティカル」は武器を作っていると説明するコンベックス。

●サムライドリームを売る日本人セールスマンとの会話

相棒の名前は「中村ヒロ」であることが分かる。ビデオドロームファンには重要な新情報である。

※脚注1 マクルーハンはトロント大学内に「文化とテクノロジー研究所」を設立し研究所の所長を務めていたが、現在(2021年)もこの施設はトロント大学内に文化技術センター The Center for Culture and Technologyとう名前で健在で、セミナーなどが活発に行われているようだ。

ビデオドロームのイデオロギーはまだここで生きていると考えると興味深い。

Long live the new flesh

トロント大学内にある文化技術センター The Center for Culture and Technology

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 「トミーの絵で見る映画館」ブログへようこそお越しくださいました。このブログはわたくし”トミー・ザ・エクストラ”が趣味でつづる映画レビューとイラストのページです。世の中に見るべき映画、おすすめしたい映画、文句を言いたい映画等など沢山ありますが、その中で私が「イラストで描いてみたい!」と思う映画だけを選びブログにしました。

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